めぐみのはなし

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help リーダーに追加 RSS ただ、私を信じた、その為に

<<   作成日時 : 2008/05/30 12:58   >>

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最近ずっと、心が重たかったです。
でも、今は解放されました。
この経験を綴ります。

私は自分では神様の喜ぶであろう事をしても自分の罪深い心からは
逃れられないという責めを負っていました。
どんなに善を行っても、お前は汚い人間だという思いが圧し掛かっていたのです。
善いこと、神様の喜ぶことをしたあとよくこの声を聞きます。
そして自分の犯す細かい心の罪が思い起こされるのです。
裁く心、比べる心、卑下する心、私はどんどん重くなっていきました。

こういう時・・・、以前の私だったらひどいことになっていたと思います。
実際以前の私は心の重さを取り払う為に興奮できるものを探して友達に会ったり、
お酒を飲んだり、何か熱中できるもの、例えば恋愛、映画、趣味、などに没頭しごまかしていました。
そういう騒々しい中で傷を見つめることもあり辛い日々だったなと思います。
でもこんなことは何の解決にもなりません。私の心の重さは晴れるどころか募るばかり。
そして、いつか積もり積もってドカーンと爆発・・・なんてこともしばしばありました。
一見、毎日賑やかで楽しいように思えるのですが、ものすごく虚しいのです。
自分で自分の悲鳴も聞こえないようにしているのですから、悲惨です。
自分の本当の心の声を聞いてあげられないのって愛じゃない。
自分のケアをしてあげることができなかった私はとても不自由でした。
私は自分を愛してあげられなかったのです。
人間は神様の愛を知らなければ自分さえもまっとうには愛せないのですね。

でも、今は神様に助けを求めることを知っているので私は訊ね求めます。
私は祈ります。
「神様助けてください。何が起こっているのか教えてください。」と。
そうすると的確に聖書の言葉が示されました。
その時御言葉は頭に入りなんとなく分かったのですが、
すんなりと心の中での解決ができませんでした。
心が曇っていて神様の言葉がぼんやりとしか聞こえないのです。

それでも忍耐づよく求め続けました。そして自分の知性で考えました。
その思考の中で具体的な原因に気づきました。
でも、この時はまだ理性では分かっていますが、心では分かっていない状態でした。
心の翳りが取れないのです。この翳りは私の罪でした。
私は罪を告白し、頭では赦されていると分かっていましたが心が追いつきませんでした。

そして、昨日聖書を読んでいる時に再びなんて私は罪深いのだろうと心から思いました。
その時自分を責めるのではなく、まっすぐにその事実を認めることができました。
それが分かった時、神様の深い愛を感じました。
そして「神様、私は本当に罪深い、どうしようもない人間です。」と泣きました。
こんなに汚い私を愛しておられる神様を感じて涙が溢れたのです。
神様の憐れみを感じました。
その時、神様の声が心に浮かびました。

「あなたを義とする。ただ私を信じた、その為に。」

という声でした。
私は涙の中で偉大すぎる神様の愛と赦しと憐れみを経験しました。
同時に解放を感じました。
罪が過ぎ去ったのです。
赦しを心で経験したのです。

今、心に重みはなく晴れやかです。

神様は真実な方なので、心から悔い改めた者には必ず赦しを与えてくださいます。
洗礼を受けた時だけではなく、私はいつも神様に悔い改めて赦されなければならないと
思いました。

神様の憐れみは私には不可欠です。
神様の憐れみなしに私は生きることができません。

慈愛に溢れる神様にただただ感謝します。
神様、ありがとうございます。
私は罪人ですが、あなたは憐れんでくださいます。
ただその寛大な愛に感謝します。
今感謝と解放の喜びと平安に包まれています。
今回教えてくださった色々なことをこれからも私は心に留めて生きることができますように。
神様、本当に本当にありがとう!

そして、いつものお願いです。。。
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